丸山敏夫氏による「万人幸福の栞(しおり)」その十
                         「働きは最上の喜び]

 人はただ生きているだけでは、何の意味もない。働いてはじめて生きがいがある。働いているときが、ほんとうに生きている時である。何もせずに、ぼんやり過ごした一日は、死んだ一日である。 

じっとしていなければならぬほど、困ったことはない。仕事のない時ほど、つまらぬことはない。職を止めると、間もなく死んでしまう人の多いのは、仕事がなくなると同時に、気がぬけてしまうからである。

そして働く人は健康であり、働く人は長命である。世の人は、体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。働かないから--- こわごわと恐れたり、いやいやながらなまけたり--- 働く心にならぬから、体が弱弱しいのである。病気になってからでも、できる仕事を心配なく働き続けていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるものである。実は本当の働きの意味を知って働きはじめると、たいていの病気が直ってしまうのは、ここに幾百千の体験が証明している。

働きが一切であり、働きが人生である。働きが生命である。この働きには、そのままに、必ず「報酬」がついている。金銭で受ける「報酬」は多少があり、不公平があったりするかもしれぬが、この自然にして当然に受ける報酬は、必ず働きに比例して、落ちもなく、忘れられもせず、必ず直ちに与えられる。それは「喜び」という報酬である。ま心で働いたと時、必ず喜びがわく。何の期待もなく、予期するところもなく働いた時、おのずからに感ずる喜びは、他のどんな喜びにもかえることは出来ない。

まことの働きには、すでに「喜び」という無上の報酬が与えられているので、いわゆる普通の給与は、喜んで働く人を、養い、歓待する天のめぐみである。いや、自然に与えられる割増金であると、感謝して受けるのがほんとうであろう。

 世の楽しみは多い。好きな物をたべる、美しいものを見る、良い着物をきる・・・いろいろの喜びの中で、どれほど続けるも、いかにひどくても、いよいよ高まり深まっていくのは、働きに伴うよろこびである。地味で素朴で尽きぬ喜び、中でも、真の働きにより、人を助け、人を救い、人の喜びをわが喜びとする、その喜び、これこそ地上無比の喜びである。

 元来仕事そのものには、上下貴賤(きせん)の別があるのではない。職業には尊卑はない。自ら軽んずる心を持つ働きを人が賤(いや)しいと思い、自ら重んずる職業を人が尊ぶのである。つまらぬ仕事だとか、いやなことだとか考えて、仕事の好き嫌いをする。こうした人は、一生涯たましいを打ち込んだ仕事につくことは出来ず、人生の真の喜びを満喫することは出来ない。

 自分の只今ついている仕事の尊さを悟って、けんめいに働く時、自然に与えられる楽しみ、これは何物にも替えることの出来ぬ人生の喜びである。最高至上の歓喜である。

 真の働きには喜びが伴うだけではない。肉体の健康も、物質の恵みも、地位も名誉も、おのずからついてくる。

 人が生きているということは、働くことである。働く喜びこそ、生きている喜びである。