自己紹介 江口 徹

指定居宅介護支援事業所でケアマネジャーをしています。 

生まれも育ちも昭島市です。昔はたんぼや畑ばかりでしたが、今や住みたい町ランキング上位となっているそうで、実際に住んでいても昭島は変わったなあと感じます。

兄弟は3人。兄と妹がいます。次男なので洋服や、おもちゃは兄の「御下がり」ばかりでした。どうしても新品が欲しいと思い、兄がしていない野球チームに小学校4年で入りました。新品のグローブを買ってもらいとても嬉しく、大事に手入れをしていたことを記憶しています。

チームは夕方の練習以外にも朝練習があり、眠たい目をこすりながら起きて練習に行っていました。日曜日も練習があるので殆ど野球漬け。そのお陰もあってか、大会で優勝したこともあります。

以来、野球を続けており、今は草野球のチームに属しています。

他の趣味は当時、大ブームだったスキーにのめり込み、20代で海外スキー(カナダ、フランス、イタリア)にも行きました。標高は森林限界とかなり高く、雪質、規模も日本とは比べ物にならないです。なかでも、大自然の中で滑るヘリスキーのパウダースノーは格別です。

学校の勉強の成績はお世辞にも良くなかったです。勉強は大嫌い、じっと座っているのが苦手で、「集中力がない」と先生によく叱られていました。けれど唯一体育だけは好き。足が早く運動会では毎年リレーの選手でした。なので、授業参観日は嫌でしたが、運動会は応援に来て欲しいと両親にねだり、徒競走とリレーの両方で1等賞が取れたこと。普段、無口な父に褒められたことが嬉しい思い出です。

やがて、社会人となり、当初は杉並区で引越し業と配達業をしていました。引越しは春先が一番多く、シーズン中は1日に何軒も掛け持ちします。それ以外の時期は配達業をしていました。折角の機会なので、当時の配達業の紹介を致します。 

配達荷物の主は食品です。贈答品に始まり季節ごとの野菜や果物、お酒、クール便、ご実家から一人暮らしの方へ田舎の食べ物。秋の豊漁になると秋刀魚、真冬は新巻鮭。寒くなるにつれて、お米、みかん、りんご、お餅など、重たく腰に負担が掛かる荷物になります。それ以外には、ゴルフバック、スキー板、スノーボード、旅行バック、通販商品、通販カタログ、母の日はお花、商品券、時間指定便、などがあります。

余談ですが、「贈答品は3J」といわれる言葉があります。Jの頭文字から「地味、実用性、重量感」の3つが喜ばれる品物だそうで、食用油などが条件を満たしますね。

車両への積み込み作業は、荷物を配達順序から逆に積まなくてはなりません。なので最後に配る荷物は一番最初に積み込みをします。それと荷崩れが起きないよう隙間なく積むように工夫します。満載なので速くは走れません。ルームミラーからは荷物しか見えないのでサイドミラーが頼りです。配達に出発すると一日をひとりで過ごすので自然とラジオをつけます。やがてラジオのコーナーで時刻が分かるようになります。 

配達では日中不在の方が多く、持ち帰ってもお金にはなりません。歩合制で配達完了の数で給料を貰っていました。なので、通称「不在周り」と言って、再配達便と一緒に夜にもう一度回り、不在の数を減らすようにします。それと毎日のように配達地域にいるので、頭の中で住宅の地図が描けるようになります。仕事柄なのか自分の住む街より配達地域の方が詳しくなります。

移動時間が少なく最短で配るにはと日々ルートを考えながら配達をしています。慣れてくると番地より名前で配達をするようになるので「誤配達」をしないように心がけます。

配達員は贈答品などでその方の職業、地位、家族構成、在宅時間、周囲との関係性など、おのずと個人情報が見えてしまうので、ある一定の周期で区域変更をするようにしています。 

当時は繁忙期のお中元、お歳暮の時期になると休みがなく、一日平均200件超の配達個数、他にも取次店を回る集荷もこなします。労働時間は「早朝のベルトコンベアーの荷物仕分け作業から、荷物が配り終えるまで」です。その後の、配達伝表の打ち込みや、整理をしているうちに終電がなくなり、会社に泊まることもしばしばでした。今思うとかなり過酷でキツい仕事でしたが、先輩や同僚と競いあって楽しく仕事をしておりました。

20代半ばとなり、職場で地域のグループ長を任されるようになった頃でした。父が病気を患い、定年を待たずに自宅での介護が必要となりました。配達もネット販売の時代へと需要の変化が始まり、「この仕事、年を取っても続けられるかな?一生、運送業もどうなのかな?」と考えが変化してきました。

予想よりも父の病気の進行が早く、当時は介護保険制度がない時代、頼れるケアマネージャーもいないので、母の介護負担が増えてくる。家族として力になりたいと思い、思い切って介護の道へ転職を決めました。今思うと、無資格、無経験でよく採用してくれたと感謝しています。 

老健で介護職員として働きながら、介護福祉士、ケアマネージャーの資格を取ることができました。ヨコタホームで施設ケアマネを経て、現在は居宅の主任ケアマネとして4年目です。いつの間にか配達業よりも福祉業界の方が長く携わっています。

最後に在宅介護、施設介護の両方を経験できたことは、もしかしたら父が導いてくれたのかも知れません。最近は「父は私たち家族に介護をする時間をくれたのではないか」と思うことがあります。

居宅のケアマネは、仕事量が多く、アウトリーチ、ボランティアをすることもありますが、やりがいのある仕事だと思います。支援しているはずが、私が支えられていることが多いです。

日本が抱えている、少子超高齢化社会、孤立死、認知症増加、介護鬱殺人、介護離職、財源抑制など問題は山積みですが、「人が人をみる」という、基本的なことは変わらないと思います。戦後の核家族化、両親共働き、少子化、躾をされない子が親になる時期なども重なり、人間関係が希薄、無関心になっていると感じます。

これからは、少々お節介かも知れないような、思いやり、気遣い、支えあいなど、日本人の特徴である慈悲深い気持ちに少しでも変わろうとしないと、社会は成り立たないように感じます。

これからも感謝の気持ちを忘れずに、微力ながら職場や地域への貢献ができたらと思います。

                                                     



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